こんな内容です
米作北限地帯とされ冷害や干ばつにより凶作が続いた田野畑村から封建社会に対する百姓たちの狼煙があがり、そのうねりは江戸末期の三閉伊を駆け抜けていきました。今月は6月号で特集した「一揆の炎」を掘り下げて一気にかかわった群像や、一揆の発端となった鉄山などの側面から三閉伊一揆を再検証しています
弘化四年、嘉永六年日本最大規模の一揆が三閉伊から南下
一揆という呼び名は、一揆を起こす方から発生した言葉です。一揆の意味は「密かに計画したはかりごと」という意味があり、「最終的にはよりどころとしている道は皆ひとつ」という信念を表した言葉なのだそうです。しかしながら、農民たちがお上に抗議をするということは御法度であり、どのような理由があろうと首謀者は斬罪となりました。しかしながら弘化の一揆においての約定を守らない南部半に対し、六年後の嘉永の三閉伊一揆は、仙台領まで達し、農民たちは南部藩に抗議をしました。ぺリーの黒船が浦賀に来訪し日本の夜明けと称されたた頃、東北の大地にも封建社会への否定が芽生えていました。三閉伊一揆はある意味、農民たちの革命だったとも言えます