こんな内容です

鍬ヶ崎が花街として文化を育んだ時代がありました。それは江戸末期から明治を経て成長し大正・昭和初期に全盛期を迎えました。その頃、鍬ヶ崎上町界隈には遊郭や料理屋が軒を並べ、遊郭の格子から張見世する遊女たち、いくつものお座敷を掛け持つ着飾った半玉や粋な芸者が闊歩する風景が日常でした。毎夜繰り広げられる宴は、空が白むまで続き三味線や太鼓の音が通りに響いていたのでした。
沖の定置網にはマグロが入りイワシは大漁で全国から仲買や買い人が詰めかけました。仲町の桟橋には北海道、塩釜、東京を結ぶ三陸定期汽船が就航していたその時代、鍬ヶ崎こそが宮古の玄関口であり、芸者たちは花街を彩る華だったのです。

鍬浦銘菓数あれど元祖水新練り羊羹の右に出るものなし

元祖・水新の練り羊羹は文化6年(1809)に水上新七という菓子職人が製造したのがはじまりで、初代・新七、新六、三代目新七と四代まで鍬ヶ崎で羊羹をはじめ生菓子、らくがんなどを製造していました。水新の練り羊羹は鍬ヶ崎の料亭、料理屋のお座敷でお通しとして出される菓子であり、庶民の口に入るお菓子ではなかったようです。大正11年(1922)岩手日報社が県産品人気投票という企画を行い岩手県の人気特産品を発表しましたがその記事の中に宮古で人気菓子の第一位に、鍬ヶ崎下町鯛屋商店が製造販売していた「鰹せんべい」と鍬ヶ崎水新の「練り羊羹」があり、どちらも8000票台の人気であったと記録されています。この時代は宮古の玄関口は三陸定期汽船が発着する鍬ヶ崎であり、仙台方面へ出る人たちは必ずと言っていいほど、鯛屋の鰹せんべいか水新の羊羹を手土産にしたそうです。また、当時隆盛を極めた鍬ヶ崎花柳界の芸子たちが進物に使う菓子は水新の練り羊羹が定番だったとされます。人気だった水上菓子店でしたが昭和初期に製造をやめ、現在は店舗だった家だけが仲町に残っています。