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明治大正期の鍬ヶ崎

明治維新の激動を乗り越え、人々の思想、生活様式が柔軟になった明治から大正にかけて、宮古・鍬ヶ崎は従来までの陸路に代わり海路が拓け交通網が発達した。鍬ヶ崎の港からは塩釜ー宮古を定期航路で結んだ三陸定期汽船が発着し、鍬ヶ崎には三陸に新たな経済を求める人と文化が交錯した。江戸期から花街として存続していた鍬ヶ崎上町にはより一層の廓や料理屋が軒を並べ、夜が白む頃まで三味線や太鼓の音が町に響いていた。鍬ヶ崎の各店舗は老舗として代々続く名店や、頻繁に転売されたり、火事により経営者が変わるものまで様々であったが、最盛期には芸者、半玉、娼婦を含めて100名以上を抱える花街であった。代表的な店舗は料理屋の老舗でありバルコニーやビリヤード台を備えた「相馬屋」、和洋折衷の三階建てで鍬ヶ崎一の広さをもつお座敷があった「旭屋」をはじめ、遊郭には「山田楼」「新開楼」「宮城楼」「日吉楼」「田中楼」「松月楼」「玉川楼」「日進楼」「松鶴楼」「くつかん屋」「更科楼」「いろは楼」などがあった。

時代の波に消えた幻の花街

鉄道や陸路が整備されていなかった明治大正時代、宮古町への交通は海路が主体だった。当時の航路は明治30年頃に不定期就航していた東京湾汽船株式会社であったが、明治40年代に入り釜石の資本家を中心に岩手県沿岸町村の地元資本により三陸汽船株式会社が発足、鍬ヶ崎からは宮古〜塩釜の定期連絡船が就航した。これにより明治末期から大正にかけて、鍬ヶ崎は新たな経済の玄関口として発達した。江戸の昔から港町として栄えた鍬ヶ崎だが、大型船により人と物が行き交うようになると、花街も比例するよう新しい文化を吸収しはじめる。建網にはマグロが入り、網元は何を疑うことなく大漁に歓喜した。魚を買いつけるため外部からも大勢の人が鍬ヶ崎に入り市場はごったがえすと同時に、夜は大勢の客が花街へ繰り出した…。そんな浮世の中、多くの芸妓たちが花を咲かせそして散っていった。戦後、混乱の時代を経て、花街鍬ヶ崎は再び蘇ると誰もが信じていた。しかし、花街は遠い幻のごとく消え去ったまま戻ってはこなかった。それは戦後の物資不足、教育制度の改革、女性の権利を守る戦後の民主主義などと言われるが、何のことはない民衆の遊びや娯楽が簡単で安価なものへと移行したためである。盛岡〜宮古を結ぶ山田線が開通し人の移動や物流は海路から鉄路へと変化した。同時に経済の流れも西へ、西へと移動してゆく…。遊里・鍬ヶ崎はその栄華を知るごく少数の老人と手元に残された数少ない写真の中にしか見ることができない。